『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第8回 カンポット胡椒アチェ起源説への疑問 アチェ戦争の数十年前にすでに胡椒栽培は始まっていた

 連載第7回で書いたように、カンポットの胡椒栽培の起源は、インドネシアのスマトラ島西部にあるアチェ王国をオランダが侵略した「アチェ戦争(1873~1904)」の際に、アチェの王が胡椒の苗をカンポットに送ったことにあった、という説がある。(前回の投稿は以下から飛べます。)

『カンボジアの胡椒と その周辺の物語』連載第7回 カンポット胡椒アチェ王国起源説 

 しかし、調べてみると、アチェ戦争の数十年前には、すでにカンポットでは胡椒栽培が行われていたようなのだ。
 まず、アンコールワットを1860年に訪れ、ヨーロッパに紹介したことで知られているアンリムオの旅から見てみよう。

 フランスの博物学者、アンリムオはアンコールワットを1860年に訪れ、その旅行記『インドシナ王国遍歴記』でヨーロッパ社会にアンコールワットを広く紹介したことで知られている(アンリムオ自身は、欧州に帰ることなく、アンコールワット後に旅したラオスで病死している。旅行記は彼の日誌を基にして出版された)。その旅行記によれば、アンリムオはカンボジアの前にバンコクを訪ね、そこからタイ湾を通ってカンポットに向かった。その途上、タイ湾のチャンタプーンの町に立ち寄っている。このチャンタプーンは、現在のチャンタブリーだ。

アンリムオがバンコクからチャンタプリーを通ってカンポットに向かった海路

 アンリムオはチャンタブリーの後背地で華人が胡椒を作っていることを書き記している[i]。アンリムオ自身が胡椒を栽培している老シナ人の家で世話になっており、タイの課税が胡椒畑にかけられ農民(百姓)の生活が楽でないことにも触れている。この華人がどこの出身かの記述はないけれど、タイであるならば潮州人の可能性が高い。18世紀、タイのアユタヤ王朝が1767年にビルマ軍に滅ぼされた後、現在のバンコク近くのトンプリーに新たなタイの首都を復興し新王となったタクシーンが、中国の潮州出身の父を持つ華人だった。タクシーンは、潮州からの多くの移民を積極的に受け入れたことで知られており、潮州華人は現在のタイでも最大華人勢力だ[ii]

 アンリムオはその後、港町カンポットからカンボジアに上陸し、当時のカンボジア王が住んでいた首都ウドンまで陸路で移動している。ウドンはプノンペンから北に50キロメートルほど離れた町で、今ではウドン脇の小高い丘の上に最近の歴代王の墓が建つ、カンボジアの人たちのちょっとした観光地だ。
 アンリムオは、カンポット上陸後、胡椒について一切言及していない。ただ、カンポットの町はほとんど華人によって占められていること、商業は華人の独占であることは記している[iii]。また、カンボジアの生産物の一つとして、産地の記述はないものの、胡椒を挙げている[iv]

 アンリムオがカンポットを通過した1859年、ナポレオン三世時代フランスによるインドシナ統治(仏領インドシナ、1862年に植民地化が始まる)はすぐそこに迫っていた。日本では江戸時代末期、大老井伊直弼による安政の大獄が起こった年だ。『岩波講座 東南アジア史5 東南アジア世界の再編―19世紀』では、フランスのインドシナ侵略の始まりを次のように紹介している。

 フランスの武力によるベトナム侵略は、1858年9月1日に始まった。この攻撃の理由はキリスト教徒への迫害であった。ベトナム阮朝は、禁令を発布して厳しく宣教師およびキリスト教徒を取り締まっていたのである。そこでフランス・スペイン両国政府は共同してキリスト教徒に信教の自由を許すことを要求していたのである。しかし、阮朝がそれを受け入れなかったので、(フランス海軍はスペイン海軍と協力して〕攻撃を開始したのである。[v]

 フランス軍は最初、中部ダナンに上陸し、その後サイゴン(現ホーチミン)を侵略した。そして、1862年にサイゴンを含むコーチシナ(メコン川河口域)をベトナム(阮朝)から奪い、その翌年の1863年にはカンボジアがフランスの保護領となる。

 歴史を少し遡れば、19世期前半のインドシナ半島南部は、カンボジアを挟んで東のベトナムと西のタイが勢力争いを繰り広げていた。カンボジアの王の後継者間の争いが頻繁に起こり、一方の勢力がタイを頼れば、他方はベトナムを頼った。そしてタイとベトナムはウドンやプノンペンまで軍を送り込んでは、それぞれの擁護する後継者をカンボジアの王に据えることが繰り返されていた。カンボジアを戦場としたタイとベトナムの本格的な争いは、1811年、1833年、1840~45年と19世期前半だけで3回も繰り返されている。

 1845年以後、カンボジアを緩衝地帯としてタイとベトナムは休戦する。このときメコン川下流部のチャウドックとタイ湾沿岸のハーティエンの東側はベトナム領、トンレサップ湖北岸のシュムリアップ、南岸のバッタンバン、タイ湾沿岸のコッコン以西はタイ領となった。現在と当時との国境と比較すると、カンボジアとベトナムの境界はほぼ今と同じであり、カンボジアとタイの国境に関しては現在よりも19世期のほうがかなりカンボジア側食い込んでいたことになる。アンリムオが訪れたアンコールワットも、そのときはタイ領だった。

 このときのカンボジアの王はアンドゥオンで、1848年に即位し1860年に亡くなっている。アンドゥオンも16歳から43歳まで27年間をタイ王の庇護を受けてバンコクで過した。アンドゥオンがタイの後押しでカンボジア王についたとき、南シナ海に通じるメコン川はベトナムの勢力下にあった。カンボジアの首都ウドン、さらにはその少し下流の商都プノンペンへの船の渡航は、常にベトナムの干渉を受け、税を納めなければならなかった。自由な貿易を求めたアンドゥオン王は、メコン川を通過せずに交易できる港としてタイ湾岸のカンポット港を整備し、さらに商品を保管するための倉庫、大型ジャンク、ヨーロッパ人商人のための宿舎などを建設し、1851年にはウドンとカンポットを結ぶ陸路を密林に切り開いた[vi]。アンリムオは、アンドゥオン王によって整備された港カンポットからカンボジアに入り、密林に開かれた道を象に乗ってウドンに向かった。

 アンドゥオンが目指したのは、イギリスが新たに開いた交易都市シンガポールとの商売だった。この時代にシンガポールからカンポットに渡ったヨーロッパ人の何人かが記録を残している。その一つである南インドのマドラス(現在のチェンナイ)駐留のイギリス将校(名前は不明)による『カンボジアの三ヶ月』(1854年にイギリスの雑誌に掲載)の中に、以下のような記述がある。

カンボジアで育つタバコもまた、良い商品である。様々な種類の商業用のカルダモンがカンボジアで栽培されており、王に収入をもたらす主な商品の一つとなっている。コショウの蔓も、大規模に栽培されている。その大部分はシンガポールの市場に向けられ、良い値がついている。[vii]

 イギリス将校が書き記したように、1854年(これは記事が出た年なので、すの数年前?)にはカンポット周辺で胡椒が大規模に栽培されていた。胡椒の木が本格的収穫まで5年ほどかかることから考えて、1851年にアンドゥオン王がウドンからカンポットまでの道を造るより前から、カンポット周辺で胡椒が栽培されていたのは間違いない。1851年はアチェ戦争が始まる20年前だ

 前述したように、アンリムオが、カンボジアではないけれど、やはりタイ沿岸のカンボジア国境に近い地域で胡椒栽培が幾百人もの華人によって行われていることを見たのは、1859年で、アチェ戦争が始まる10年以上前だこのように、アチェ戦争の数十年前から、カンボジア海岸地域を含むタイ湾東岸部で胡椒の栽培は始まっていた。

 2012年1月16日の日付で、タイム誌がカンポットの胡椒に関する記事を掲載している[viii]

 この記事の中でもアチェが登場するが、「アチェ戦争によって生じた胡椒生産の減少が、カンボジアの胡椒栽培が発展する大きな契機になった」という内容になっている。1820年代には、アチェの胡椒生産量は世界全体の半分以上を占めた。それがアチェ戦争で激減したとすれば、それを埋める供給元が求められたのは当然のことだろう。アチェ戦争がきっかけになって、アチェ戦争以前から胡椒栽培が始まっていたカンボジアの胡椒輸出が増えたと考えることに、無理はない。

 19世紀後半に起こったアチェ戦争前後に、アチェからの胡椒の木がカンポットに移植された可能性は否定できない。しかし、それはカンポットでの最初の胡椒の木ではなかったはずだ。アチェから胡椒の苗が届く前から、カンポット周辺の胡椒栽培はすでに始まっていた。


[i] 88ページ アンリ・ムオ/著 大岩誠/訳『インドシナ王国遍歴記』 中公文庫 2002

[ii] 19ページ リン・パン/著 片柳和子/訳『華人の歴史』 みすず書房 1995

[iii] 121ページ アンリ・ムオ/著 大岩誠/訳『インドシナ王国遍歴記』

[iv] 175ページ アンリ・ムオ/著 大岩誠/訳『インドシナ王国遍歴記』

[v] 105ページ 池端雪浦・他/編『岩波講座 東南アジア史5 東南アジア世界の再編19世紀』岩波書店 2001

[vi] 1851年にウドンとカンポットを結ぶ道をアンドゥオン王が造ったことは、王朝年代記による。現存する王朝年代記は複数存在するが、この場合は1883年に刊行されたものによる。(北川香子/著『カンボジア史再考』連合出版 2006 で「ムーラ訳」とされるもの。『カンボジア史再考』206ページ、および49ページ参照)

[vii] 202ページ 北川景子/編訳『カンボジア旅行記』連合出版 2007

[viii] TIME Internet Page Back to the Grinder By Brendan Brady January 16, 2012  http://content.time.com/time/magazine/article/0,9171,2103704,00.html

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